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制作依頼を¥0 で受けてみる人のお話

趣味で動画を作っていると、制作の依頼を受けることがあります。ここで悩むのが、いただく報酬をはたしていくらに設定すべきかという問題です。ただし今回の記事では「相場はいくらくらい?」という具体的な答えではなく、「この相場でもOKか?」というお話をします。

特にまだ自信がない頃だと「¥0 が気楽だなぁ」と考えると思います。ところがTwitterのタイムラインを覗くと、しばしば「若者が動画を¥0や低予算で作ることで、動画を仕事にしている人が生活できないほど相場が落ちる」との主張をよく見かけます。たしかに相場が落ちるのは正論っぽさがあり、¥0 受注を敬遠している人も少なからずいるでしょう。でもそのためらいは不要だと主張したいです。

この記事には現在の私の考えを残します。でも記事を塗り替えるような正論が返ってきた時には、突き返さず参考にしたいです。


動画制作の相場を破壊すると問題なのか。

動画制作の相場はどんどん破壊されるべきだと思っています。あまり躊躇はありません。

様々なチュートリアルや解説をみると「動画を小ぎれいにするノウハウをわかっていながら、なかなか本質を公開してくれない」という状況が昔からあります。これは本当に面倒です。なぜなら創作の世界に入ってくる人間にとって何もハッピーではない、余計なハードルを置いているようなものだからです。

ゆっくり映像学区はその「共有されにくいノウハウ」が何であるか楽しく探求し、発信しようとしてきました。エゴサの反応を見るに、私も粛々と相場を破壊している人間のひとりだと思います。

もっとクリエイターの技術はオープンであるべきです。それは相場を下げますが多くの人を幸せにします。むしろ進歩や差別化のない創作でお金を儲ける人に、こちらが合わせる必要なんてない。

だって、想像してみてください。伸びの悪くなった YouTuber が、まわりのインフルエンサーに対して「もっと空気を読んでもろて」とお願いするなんて片腹痛いですよね。「相場が崩れるから¥0 受注やめろ」なんていう主張もそれと大差ない主張です。

Wordのたとえ。

江戸時代は、本が大衆文化として根付き始めた時代です。当時本を出版するために1文字ずつ書いたり、木版を彫ったりしていました。そのためのだけの職人が存在し対価を得ていたのです。本も高価だったので、”TSUTAYAレンタル”のようなカタチ(貸本)で江戸っ子市民にシェアされていました。

今はMicrosoftからWordという文書編集ソフトが販売されています。これに文章を打ち込む操作を有償依頼する人なんてほとんどいません。誰だってキーボードを叩けば何万字でもWordに書き込むことができます。それ自体には対価なんて発生していません。本も安くなり、電子書籍のサブスクも生まれました。

モノには付加価値をつけることで、ようやく魅力ある有償サービスになります。たとえば小説家は「ストーリー」を文章の打ち込みに付加することで対価を得ています。レポート宿題代行サービスも「アイデア」や「時間短縮」といった要素を、文章の打ち込みに付加することで対価を得ている。儲けようと考えるならば、それ相応の付加価値をつけるのが義務であるわけです。

動画編集の作業は、先ほど述べた江戸時代の状態から、現代の状態に移行しつつあるのではないでしょうか。スマホ1台でも記録映像をつくることはカンタンですし、まったく動画方面の教育を受けなくてもPremiere ProとAfter Effectsでプロっぽい編集ができます。もう昔とは違うのです。

逆に適切な付加価値が存在すれば相場が落ちても問題ない。プロでいられる動画クリエイターは「安心・責任・ほかにない技術・ほかにない組み合わせ」を付加価値として売るようになるだけのこと。相場の変化なんて、社会にとって至極当たり前の流れであり、我々趣味の人間が心配してどうこうなるタイプのものではないです。

私はこの”変化”を「カジュアル」という言葉でよく表現します。大してお金をかけることなく、カジュアルにできる範囲で素晴らしい作品に仕上げるにはどうするか。それを考えるのが映像学区のコンセプトのひとつです。

次に仕事と趣味の境界があいまいな今を、ARIAのたとえで説明します。

ARIAのたとえ。

私のお気に入りのコミック・アニメに『ARIA』(天野こずえ 2001年)という作品があります。そのストーリーは、主人公がベネチアのような街で観光ゴンドラを操る”水先案内人(プリマ・ウンディーネ)”を目指すものです。こちらのARIAの冒頭のシナリオは、趣味と稼ぎのあいまいなラインをいくクリエイターに、ちょっとしたヒントを与えてくれます。

主人公は冒頭、見習いの水先案内人なので、まだお客さんを乗せることができません。しかしある日、どうしても主人公のゴンドラに乗って街へ繰り出したい、となかば強引にお願いする幼い女の子が登場します。

心優しい主人公は引き気味でしたが、そこで女の子は”今からお友達です”といってゴンドラに居座ることにしました。仕事として、お客様として乗ることはできないけれど、お友達として練習につきあってしまおうというわけです。このお友達の概念はおもしろいと感じます。

さきほどのwordのたとえのように、わたしたちが創作をしたとしても、いつも絶対に対価を得なきゃいけないわけではありません。それは当然のことですが、なぜだか私たちは時々その感覚を忘れてしまいます。作って楽しけりゃ、あとは自由でいいわけです。

動画制作がプロに頼むだけではなくて、個人でもできるカジュアルな文化になった現代。動画の依頼についても、そのような柔軟さがあったって良いのではないでしょうか。相手が仕事としてメールを送ってきたなら、自分の出せる最大限と求められているものを合致させる。お友達として依頼されたとしても、まるで旅行のホテルを決める担当になったような感覚で制作をしてみせる。

もちろんお友達としてできるレベルには限界があります。たとえば、「結婚式の撮影をお願いしたい」みたいなタイプは引き受けにくいです。なぜならフラッグシップの撮影機材に加えて、披露宴の流れを完璧に理解していること、さらにすべてを収めるヌケのなさが必要だからです。おまけに失敗が許されない。

そういうプロが適切な舞台に関して「それはプロに頼むのが一番だよ」と教えてあげられる力も、ここでは立派なスキルの1つではないでしょうか。本当に良いものの価値を理解していたいものです。